神話への架け橋 





たのうえです。

今回は、自分の研究のいくつかあるテーマの一つ、と言わざるを得ないものの話です。

一つは前の記事で紹介した藍。
これに続き、腐れ縁のものに神楽があります。
二つとも、もう15年くらいの縁。

藍の方はすぐ実際に染めるという工程まで体験できました。

その時の感動が衝撃的でそれが今なお、藍に関わる原動力になっています。
藍は染めの体験をした後、実際職人さんのところにお邪魔したり、通っていた施設に植っていた藍を分けて貰いそれを育てたり。
ここまでが第一期(学生の頃)。
ここで第一期とするのは、その時、付き合っていた女性が藍に興味を持ったので、そちらに学生の頃は藍に関わることを譲ったというか、お株を奪われたというか…色々ありました。
それでもって一度藍とは疎遠になります。

その後、今の職場に入り、そこで藍の生葉染めを体験として提供していたことから、再び藍と関わる機会を得ました。
そしてそこで5年。
藍の栽培、生葉染め、乾燥葉染め、人工藍を使った染め、型染め、絞り染め…と少しずつ歩みを進めつつあります。
その過程で、以前は教科書みたいに使っていた、最初体験させてもらった施設の出版物の内容にふと疑問が湧き、調べつつある結果、武蔵国郡村誌の記載を見てみよう、ということになっています。
これだって、そんなに難しいことを調べようとしているわけではありません。
その本では、武蔵国郡村誌で藍を栽培している町村を地図上に落とし、それらが利根川、荒川流域にあるとして、水が使えた地域で藍作が行われていたとしています。
敢えて、出典は控えますが、こんな図です。

でも、第一にその図の精度が極めて低い。その時代、しょうがないのだと思いますが、手書きの作図で…典拠も大雑把。

武蔵国郡村誌というものに記載されているデータは、明治8-9年頃のものとされています。
埼玉県立図書館/埼玉県関係史誌 目次一覧

で、勤め先の地域の明治9年の物産報告では、その地域でも藍が栽培されている。
では、その図を見てそれが表われているかというと…ビミョーなところなんです。

図の元になる各町村のデータがあれば、その再現もできるのですが、それらしいデータはその本の関連図書に出ていますが、出典名がこれまたビミョー(特定できない)。

水の利用ということを考えるとしたら、県単位でみれば、利根川、荒川流域という視点でいいのかもしれませんが、もう少し詳しく地域を見て行くとなると、その支川、あるいは小さな河川の存在も考えていかないといけない。
何せ、これまで「教科書」にしてきたものです。それがあやふやだと気持ちが悪い。
…と言うわけで前の記事ができた訳です。

さて、この記事は、藍ではなく、神楽についてです。
神楽もその施設つながりで関わるようになったものなのですが、こちらは、大きな感動体験というものがありませんでした。
芸能公演をお手伝いしたり、組み立てようとしてきたことはあります。
ただ、それは神楽の公演という事業への関わりです。
神楽公演事業への関わりはあっても、自分自身と神楽との関わりというものが希薄でした。

正直に書きますと、神楽って何? 何がおもしろいの? 演じる人はどんな人? 使う道具は? すべて自分とのつながりが想像できませんでした。
そりゃ、近くの神社にいけば神楽を見ることができますが、正直「なんだそりゃ」というのが自分の実感でした。
そうしながらも、神楽公演事業への関わりは続きます。
そうすると、だんだん、訳の分からないもののお祭りに関わっている、という風になってしまい、しまいにはその事業からも距離を置くようになりました。

さて、ここまできて、ようやく広告。

最近、とあるSNSで色恋を語っている知人がおりまして、それに触発されて、永六輔さんや、北山修さんをとりあげて駄文を書きました。

お二方とも、出会い、そして別れに対峙した(≒そこで言葉を紡ごうとした)のでは、しているのではと、かつて彼らの本を読みあさっていた頃の記憶で文を書きました。
そのSNSでは、あまり論じることはしていません。

論じることはお仕事、そこは、庭は開放されているけれど、私の家の中、自分の好きなように言葉、文を記すというようなスタンスでいるためです。
SNS毎にであったり、書く媒体毎であったり、文章を書き分けることはしています。

このブログは、実生活でしょうかい(紹介、照会)できる自分を記していこうと意識していますので、気持ち、伝える、ということを意識しています。
もちろん、仕事で書くことに追われると、こういう準公式のブログさえ更新が止まりがちになってしまう、のですが。

話を元に戻します。

そこで永六輔さん、北山修さんに触れた時、それを読んで下さったお一方から、鋭い問いかけをいただきました。
さて、そうなると駄文は駄文なりに、出典、あるいは説明をせねばならぬ、そう思い立ち、7年ぶりに開いたのがこの一冊です。

内容は、帯の文章に尽きます。

イザナキ・イザナミの神話に示された「罪」と「恥」を読む。

この通りです。

もう少し付け加えてみます。

精神科医である北山修氏は臨床の現場で、様々な方と心理について考えていく際に、その一つの原型のようなものとして、語り継がれてきた伝説、神話、昔話を位置付けることができるのではないかとします。
そして、日本に残る、伝説、神話、昔話の悲劇を見ていくと、そこには一つのパターンがあるとします。

それが「見るなの禁止」(≒見るな、という禁止)のがやぶられることで、そこでは、見られた側(女性)はそれを恥じ立ち去り、見た側(男性)は呆然と立ち尽くす、という別れが繰り返されているとします。

また、これまで、河合隼雄などにより、見るなの禁止がやぶられた結果生じる、見られた側の「恥」は論じられてきたが、見た側の「罪」についてはこれまで論じられることが無かったとします。
こうして「恥」と「罪」を議論の俎上に載せることで、それらを和らげる方法を模索していく、その試みが本書では行われています。

そしてその悲劇には、別れ、喪失も含まれてきて…。

…と、神話をそういう見方をすることで、はじめて興味深く見ることができたのが今日の自分です。
そして、その神話を題材にする神楽、そこで用いる神楽面、神楽そのものの劇的構造、これらが興味あるものに転回していきました。
そういう点で、久々に読んで、つながった、というのが正直な感想です。

前に、この本読んだときは、まだ読みこなせなかったのですが、そういう意味では、少しは文が読めるようになったのだと、どこかでひと安心もしたり。

と、文章がだれてきたので、今日はこの辺りで。

ここから、神話、神楽、神楽面へ。
少し思考と試行の旅行を楽しみたいと思っています。

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